ももいろペリカン日記

今日を留めるブログ

美しい気持ち

2月の初旬、野菜の定期便に、農家の方が丹精して育てた桃の小枝を添えてくれた。

上手な咲かせ方の説明も添付してあるが、花を咲かせるのは少し難しいらしい。

娘の初めての桃の節句だから、咲いてほしいと願ったけれど、雛祭りの日がきても、桃の枝はまるで無言で花瓶の中に佇んでいた。

急ぎ二駅離れたショッピングセンターの花屋から、蕾を沢山つけた大きな桃の枝を一抱え調達して飾った。それは、この3週間で華やかな紅色の花をつぎつぎ咲かせた後、やがて緑色の葉を茂らせた。

その隣で、うんともすんとも変化をみせずにいた小枝も、小さな緑の葉だけを出した。花は咲かなくてもその枝振りがなんともゆかしく、毎日眺めて飽きなかった。

思えば狭い我が家は有り難いもの、どこにいても眺めることができた。

 

そうしてはや2ヶ月過ぎようとしていた今週、3月25日、葉の間に小さな薄桃色の蕾が点っているのに気づいて目を見張った。

 

3月28日

花が開いた。枝の先に2輪も。

 

もう咲くことはないなんて勝手に諦めていたけれど、家に来てから2ヶ月間、花の命は枝の中でその咲き時を待って眠っていただけだった。育てた農家の方が桃に注いだ愛情に遠く想いを馳せた。

 

3月29日

「いとこのたろうちゃんを思い出すと面白い気持ちになるんだよ。」と、息子は言いながら、もう笑っている。たろうちゃんとは同い年。

続いて「お母さんと一緒だと楽しい気持ちになるんだよ。」と言ってくれる。

そうして「いもうとと一緒にいると嬉しい気持ちになるんだよ。ああ嬉しいなあっていう気持ちだよ。美しい気持ちでもあるなあ。」

面白い気持ちに、楽しい気持ち、それに嬉しい気持ちは美しい気持ちって、

なんだか万華鏡をくるくる回して見ているように、

次々と表現を変えて話すから、思わずくすっと微笑んでしまった。

 

 

 

今日はまた桃の花が、3輪開いた。

 

 

 

 

 

3日ぶりの青空の下

3月25日

スーパーで最初に通る野菜売り場、入り口からそこに差し掛かるともう苺の香りが漂っている。

種類がたくさんで目移りしてしまうけれど、あまおうとさちのかを籠に入れた。

特別感のあるあまおうを明日きてくれる両親と食べよう、さちのかを今日息子と食べようと思ったのだけれど

 

 

3月26日

両親の来訪が延期になったので結局どちらも息子と食べることになった。

糖度の数値も値段も色の鮮やかさも大きさも、全てあまおうが上だったけれども、

香りは断然さちのかが良くて美味しかった。

 

売り場に書いてくれていた「苺の選び方」には、

1 種まで赤い

2 へたの近くまで赤い

3 先端が平ら

とあって非常に参考になったから、これにプラス”香り”を入れようと思う。

 

3月27日

3日ぶりに晴れた。

黄砂の情報を確認してから、布団を外に干した。

 

黄砂を最初に知ったのは、

小学生の時、大分県の祖父のところに遊びに行った春休みだった。

祖父が庭で

「ほらみてごらん、空が黄色いでしょう、大陸からはるばる黄砂といって砂漠の砂がとんできているんだよ。」

と空を見上げて言った。

まだ行ったことのない海の向こうから届く春の便りのような何か特別なものを見られた嬉しさがあった。最初に知ったときの印象がそれだったけれど、大人になってからいつしか、ただ警戒すべきものになった。

 

何につけても祖父は、良いとか悪いとか物事を判定するような言い方はしなかったなあと思い出し、我が子と話す時の自分を省みもした。

今日は本当に抜けるような青空だ。

 

 

探し物は何ですか

一週間前から書類分け用のファイルが見当たらなかった。グレーとアイボリーの大きいファイルとグレーの小さいファイルはあるのにアイボリーの小さいファイルだけない。

失くなるような大きさではないのに、この一週間見つからない。

さんざん家中探し、心あたりのない場所まで確認したけれどない。

何か失くしものがあると、頭のどこかで気になってるから、そのうちでてくるはずとの思いなしも効かなくて、始終、気持ちが落ちつかないから、今日こそ見付けて気持ちをすっきりさせようともう一度、押し入れから本棚から全て目を皿の様にしてさんざん探して疲れはてた。

あんな大きなものが見えなくなるなんてあるのかな、こんなことってあるのかな、そんなファイルなんて最初からなかったんじゃないかとさえ思ってしまった。

次の瞬間はっとして、数年前の購入履歴を検索し、そのファイルをもともと持ってなかったとわかり唖然とした。

何か失くしたと気づいた時には、直ぐに見つかるまで探すのを鉄則にして、失くしたままにしないようにしてきたけれど、一週間もかかり、こんな決着は初めてだった。

「どんなにみつけにくいものでも、必ずみつけるんだ。」と呟いたら

「それいいね。」て小さな息子が笑ってくれた。

 

 

 

 

 

 

 

清水の舞台から物語は展開する

昨日につづいて雨だ。

午後は能楽を観に出掛けた。

 

今日の能、

演目は「花月」と「熊野」。

花月』は、

幼少の我が子をさらわれた父親が、仏道の諸国修行に出るのだが、花咲く清水寺にて花月という少年の舞を見るうちに、それが我が子であると気付く。再び巡りあえた親子二人は仏道の修行に出かける物語。

『熊野』は、

平宗盛に仕える女熊野は郷里の母の病状を知り暇を乞うが、母から届いた手紙を見せても、宗盛は帰郷を許さない。母を案じ心沈んだまま、宗盛に伴って、清水寺の花見へ行き宴で舞うのだが、そこで俄に時雨が降って花を散らしたその時に、心情を和歌に詠じて宗盛の心を動かし、帰郷を許され郷里へ急ぐという物語。

 

 

花月の曲舞(くせまい)も熊野の舞も見応えがあって、お囃子により彷彿してくる情景も一際鮮やかだった。

大鼓が牽引する演出、笛や鼓と謡が想像を掻き立てるから、簡素な舞台道具でも、そこに花咲く春の清水寺が現れてきて、見入っていると、いつの間にか物語の渦中に入り込んでいるから面白いこと。

物語が終われば、急に静けさに包まれた舞台上から、役者が、お囃子が、従容と去って行く。見えないところから静かに舞台に上がってきた役者やお囃子や謡が、また見えないところに静かに帰って行く。

 

どちらの演目も、悲哀や悲痛のさなかにあり決意や悟りの境地にある者の、その運命が、春の清水寺において展開していった。

 

清水の舞台から、なんて、覚悟を表す表現あるけれど、一度も使ったことはない。ただ、この世の悲しみも恐れも、静かに抱き締めて、覚悟して前に進むしかない、きっとそれしかないのだろう。

返事するときしないとき

パソコンに向かっていたら、

「なあに?」と息子に言われて、

なんだろうかと思ったら、

その前に私が「はいはい、わかりました。」と言ったらしい。

『バッテリーの残量が非常に少なくなっています。』とパソコン画面に出た時に返事していたのかと気づいた。

そういえば先日スーパーで勝手がわからず手間取り、セルフレジに『選択して下さい。』と何度も繰り返されて慌ててしまい

「はいはい、ちょっと待って下さい。」と言っていたことに息子に「どしたの?」と声をかけられて気づいた。

無意識にこんなに返事をしていたんだなあと思ったのだけれど、

そうしたら、その後お風呂に入った時に、

湯沸かし器が

「もうすぐお風呂が沸きます。」といっても

「お風呂が沸きました。」といっても

全然返事をしていないということが妙に意識されてしまい、

少し遅れて「はい、わかりました。」と、言わずにはおられず言ったら、お風呂の高い天井に声が反響してぞっとした。

丁度、息子が入ってきてくれて、「お母さん、お風呂はやっぱり楽しいよねえ。」と湯船につかって、「お母さん歌おうよ。」と言ってくれて、滝廉太郎の「花」を一緒に歌った。

一日中、入学に向けての家の片付けをして過ごし、特別なことはなかったけれど、何年か先にもきっと今日は思い出すと思う。

 

 

 

 

 

家事の分担

家から歩いて15分程のコメダ珈琲店、絵本、折り紙、ぬりえまで店内にあり、子供と一緒でも時間さえ許せば2~3時間は過ごしてしまう。

本当は早く帰らなければならない。帰ってお風呂、その後に、手洗い洗濯が待っているから。

洗濯機が故障したのは2週間前のこと、脱水だけしかできなくなった。その脱水も止まる間際に、機関車が急ブレーキをかけたような凄い音をたてるから、もう限界なのだが、なんとか脱水だけしてもらっている。2014年製だから、ちょうど10年目、ずっと家事を分担してきてくれたんだなあ。

 

 

 

4日も家に閉じこもっていたから

午後、家を出たら風が冷たくて、息子と思わず顔を見合わせ、二人で目を細めた。

近所のスーパーまでの道のり、ユキヤナギの真っ白い小花とレンギョが咲き誇り、歩道を飾る。

「わあ、きれいだねえ、お母さん。」

どこからか水仙の強い香りが鼻を突き抜けていった。

「お母さん、なあにこれ!」息子は驚いて鼻をひくひくさせた。

 

帰り道、途中の公園のメタセコイアの並木道に差しかかるとき、もう日は暮れかけていた。頭上に張った枝の間には月がちらと見えた。

並木道を抜けて空が広がったとき

「お母さん、すごいものみえたよ。」

急に息子が叫んだ。

「あそこ、お月様ところに雲が、ももいろの鳥の形でね、その鳥がこう羽ばたいてね、飛んでいったんだよ。」

風にさらされ両頬を赤くして嬉しそうに言う。

急いで見上げた先には、淡い群青色の空に月がぼんやり浮かび、薄い紅を一差ししたように、ちぎれた一片の雲だけがあった。

ただきれいだなあとしばらく我を忘れて眺め入った。

 

買い物に出ただけ、それが4日ぶりの外出だったから、冬眠開けの熊の親子のように、楽しい散歩になったのかな。