ももいろペリカン日記

今日を留めるブログ

清水の舞台から物語は展開する

昨日につづいて雨だ。

午後は能楽を観に出掛けた。

 

今日の能、

演目は「花月」と「熊野」。

花月』は、

幼少の我が子をさらわれた父親が、仏道の諸国修行に出るのだが、花咲く清水寺にて花月という少年の舞を見るうちに、それが我が子であると気付く。再び巡りあえた親子二人は仏道の修行に出かける物語。

『熊野』は、

平宗盛に仕える女熊野は郷里の母の病状を知り暇を乞うが、母から届いた手紙を見せても、宗盛は帰郷を許さない。母を案じ心沈んだまま、宗盛に伴って、清水寺の花見へ行き宴で舞うのだが、そこで俄に時雨が降って花を散らしたその時に、心情を和歌に詠じて宗盛の心を動かし、帰郷を許され郷里へ急ぐという物語。

 

 

花月の曲舞(くせまい)も熊野の舞も見応えがあって、お囃子により彷彿してくる情景も一際鮮やかだった。

大鼓が牽引する演出、笛や鼓と謡が想像を掻き立てるから、簡素な舞台道具でも、そこに花咲く春の清水寺が現れてきて、見入っていると、いつの間にか物語の渦中に入り込んでいるから面白いこと。

物語が終われば、急に静けさに包まれた舞台上から、役者が、お囃子が、従容と去って行く。見えないところから静かに舞台に上がってきた役者やお囃子や謡が、また見えないところに静かに帰って行く。

 

どちらの演目も、悲哀や悲痛のさなかにあり決意や悟りの境地にある者の、その運命が、春の清水寺において展開していった。

 

清水の舞台から、なんて、覚悟を表す表現あるけれど、一度も使ったことはない。ただ、この世の悲しみも恐れも、静かに抱き締めて、覚悟して前に進むしかない、きっとそれしかないのだろう。